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臥薪嘗胆の語源と由来、例文、英例文

この記事では、「臥薪嘗胆」の語源や由来について解説しています。
語源に関する様々な説を紹介するとともに、例文や英語例文(日本語訳付き)も紹介します。
そのため、「臥薪嘗胆」という言葉に興味がある方は、ぜひ本記事を読んでみてください。

運営者(とみちゃん)

熊本県生まれ。国立高専→国立大学院(情報工学修士)。当時は小さなベンチャー企業2社(現東証プライム市場上場 アカツキ、現JASDAQ市場上場 Speee)、時価総額数兆円規模の大手企業にてエンジニア・インターンシップを経験。Speeeの開発インターンシップ evolution (上級編) にて優勝し、Speee賞を受賞。大学院では、国内最大級のシンポジウムである「情報処理学会 DICOMO2014」にて最優秀プレゼンテーション賞・優秀論文賞を、ワークショップでは「情報処理学会 DPSWS」にて優秀ポスター賞を受賞。その後、大手企業本体の研究所でソフトウェアの研究開発職として従事し、ソフトウェアの上レイヤー~低レイヤーの幅広い開発経験を積み上げる。離婚を経験し、精神的苦痛を和らげるために横浜市から熊本市を電動アシスト付き自転車で走破(1,350km、総日数11日、内雨天時の2日は休憩日)。その後精神面が回復し、現在は子会社の役員室に所属し全社のDXを加速させる仕事に従事しつつ、複数のブログを運営中。

目次

臥薪嘗胆の語源と由来

臥薪嘗胆という言葉は比較的日常でも耳にする機会が多い四文字熟語ではないでしょうか。
その意味するところは、苦い思いをかみ締めながら、将来いつの日にか復讐をはたすことを目標に現在の苦境を我慢するというものです。
一見するだけではこれほどの意味合いをもつのか分からないかもしれません。
それもそのはず、実はこの言葉、中国の歴史の逸話に語源があるからです。
そこで今回は「臥薪嘗胆」の由来と語源について御紹介します。

この言葉の直接の由来となっているのは、古代中国の歴史家である司馬遷が上梓したとされる、「史記」巻41の越王にまつわるエピソードに記載されています。
「史記」によると紀元前6世紀末、現在のベトナム北部周辺に位置していた、呉と越は隣国同士であることもあり、頻繁に戦火を交えていました。
当時の呉と越の対立するさまは、別の四文字熟語である、「呉越同舟」という言葉にも伺われるほどです。
当時呉王は先年に越から侵攻をうけ損害を被ったことの復讐として侵攻したものの返り討ちにあい、王自らも負傷しそのケガがもとで死亡してしまいます。
当時の呉王の無念のほどは相当だったらしく、後継者の「夫差」に「必ず恨みをはらすように」との言葉を言い残し、次の王に復讐の任を委ねました。

王が臨終する間際、夫差は「3年以内にかならず」と応えたと伝えられています。
幾度も干戈を交えたことがあるとはいえ、復讐戦を勝利することはなみたいていの覚悟では叶うことは出来ません。
夫差は先王の無念をわすれることなく、雪辱をはらすためのモチベーションを維持するために奇策を考え付きました。
それは就寝時に床のうえではなく、常に薪の上で身をよこたえる生活をはじめます。
まきぎを並べて寝床に帰るわけですが、平坦ではなく凹凸がつき非常に不安定です。
凸凹の上にある以上、突起部分に体重がかかるのでただ身を横たえているだけでも相当な苦痛です。
自らはまきの上で就寝することで、四六時中ねている瞬間でも越に味わわされた屈辱を忘れることなく、日々復讐の念を深めていきます。
もちろん戦争に勝利するための国づくりにも余念がなく、ほどなくして呉は越に再侵攻し戦端を開きます。

前回の戦争とはうってかわって、呉軍を越軍を圧倒、越王「勾践」は部下の進言を受け入れて降伏しました。
越は呉の支配下におかれると同時に、命だけは助けられた勾践は、国外追放されて異国の地で貴賓としての身分を剥奪され馬小屋の番人になるなど苦労を重ねながら、復讐の機会を窺うことになったわけです。
国外追放を許されて越に帰国することを許され、呉軍も撤退したため越は復権します。
彼もまた富国強兵に営み、経済力の復興と軍事力の蓄積に努めます。
その際、彼は苦い「肝」を「嘗」める(なめる)ことで屈辱を忘れないよう心に刻んで居たと伝えられています。

他方で呉王の夫差は近隣諸国に対しても戦勝を重ね、覇権を確立します。
度重なる勝利におごりをもった呉王は、横暴を極め、さらに版図拡大のために各国に出兵をくりかえすようになりました。
戦争は経済を疲弊させるのは、古今東西かわるところはありません。
先代以降蓄積してきた国力も、戦乱を重ねることで疲弊し越からも侵略の機会を窺われるほどの有様。
戦争に勝利することで傲慢になっていた夫差は先代王からの忠臣までも処刑するなどして横暴を極めました。
呉に敗北してから20年経過したとき、越王勾践はマンを持して呉国に攻め入り夫差の軍を撃破。
大敗した呉王は降伏の意志を表明し除名嘆願したものの、これは受け入れられることなく、王位への復権も叶わなくなったことから夫差は自殺することになったわけです。

このように臥薪嘗胆は、紀元前6世紀末の呉越両国の戦争の歴史と、その過程で互いに復讐の機会を窺い執念深さを今に伝えるエピソードに由来しています。
中国の歴史に語源をもつ臥薪嘗胆ですが、近代の日本でも全国的に注目されたこともありました。
1894年から1895年にかけて勃発した「日清戦争」では、下関条約が講和条約として日本と清国の間で締結されました。
戦勝国であった日本は清国からリャオトン半島の割譲を受けることで合意しました。
これでリャオトン半島の領有できると日本全国がわきたったタイミングで、ロシア・ドイツ・フランスから横槍が入ります。

これら三国は日本にリャオトン半島の清への返還を迫りました。
これが世に言う「三国干渉」です。
ロシア・ドイツ・フランスといえば当時の帝国主義列強のなかでも強大な力をもち、その主張するところを日本政府としても無視することはできません。
そこでやむなく日本政府は三国干渉の要求を受け入れ、リャオトン半島の領有権を放棄します。

戦死者を出してまで勝利を掴んだ日本国民の多くは、三国干渉に反発し国民の間では臥薪嘗胆の言葉が大きな流行を見せます。
これが10年後の日露戦争への布石のひとつになったとも言えそうです。

臥薪嘗胆の例文(英例文も併記)

  1. 私が臥薪嘗胆の思いで勉強を続けてきたのはこのためだ。
    This is why I have continued my studies with the intention of lying down.

まとめ

今回は、「臥薪嘗胆」という言葉の紹介と、その使い方の例文をご紹介しました。
この記事がお役に立てれば幸いです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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